優劣について、最近よく考える。
希望してた派遣の仕事が他の人に決まり、それ感じてみると、この件に関しては自分に自信があったし他の人に負けるなんて思ってなかった。
誰かに負けた。悔しい。と、はっきりした競争概念みたいなものを自分の中に感じた。
私は、ことあるごとに自分と誰かを比べている。
一番よくあるのは、何かに成功している人を見たときに「この人はすごいなー(それに比べて自分は…)」という考え。
悲しくなったり、情けなくなったり。というところまで創る。
感情にはまっても、最後にはそれをみている自分(感情や考えから影響を受けずにある私)を確認するので、ドラマはそこで終わるのだけど。
他にも「この人は、まだこの地点なのか。こっちの方がいいのに~」と、あまりに当たり前に人をジャッジしたり、
「私はこの人とは違うんだ!一緒にはならない!」と違いを強調してみたり、
「なに、わかったようなこと言ってんの。」と、自分がわかってないので遅れているような気がして腹を立ててみたり。
ことあるごとに「私」と「他者」の境界をつくり、違いを強化し、「個としての私」を成り立たせるためにがんばっている。
誰かを軽蔑したり、かわいそうに思ったり、関わりたくないと思うとき、私はその人を間違いなく差別していて、私はその人じゃなくてよかったと思っている。
私はその人じゃなくてよかった。
私とその人は違うことで安心する。
私の方がその人より恵まれていて、優れていることを確認して安心する。
優劣のゲームをいろんなところで繰り広げている。
今回の仕事の件でいうと、「すべての仕事に優劣はない」なんて思ってなかったことに気づき、がく然とする。
クリエイティブだったり、専門的なことがいい、誰でもできる仕事じゃ嫌だ。
誰でもできる仕事を蔑視していたのだ。
私という存在を、仕事の内容で差別化し確立したい。
つまりは、外側から一目おかれたい。認められたい。
子どものころからやりつづけた優劣や勝ち負けのゲームを、まだつづけていた。
この概念でいうならば、老いることや死や病気に直面することで、いずれは確実に負けていく。
一方で、そう考えているのは、紛れもなく私だということ。
それらすべては私の持っているものさしであるということ。
こうやって考えると、ものさしをたくさん持っていればいるほど、窮屈になっていく。
個としての私。
名前、肉体、経験、仕事、年齢、性別、国籍、ファッション、家族…
全部、自分や周りを定義するための要素。
どんなに当たり前に思えるものさしでも、それを存在させているのは私だ。
私は本当にこれでできているのだろうか?
私は本当に目の前にいるいろんなものと違うのだろうか?
私は、何を絶対的なものとして信じて、存在させているのだろうか?
私は誰かより優れても劣ってもいない。
それを感じるとき、生じる痛み。
一生懸命培ってきた考えが、崩壊するときの痛み。
それを創りだしている私を感じているとき。
ふと、そのものさしから自由になっていることに気づく。
意図的にものさしをおろすのではなく、ものさしが消えていることに気づく。
とりあえずは、選考で負けた悔しさはどこかへいった(笑)
私は私がみる宇宙、世界に責任をもっていこう。
次の記事でも、ちょっとそんなことについて書いてます。
嫌いな自分を掘っていく。
どうやら私の中には、周りのほぼすべてのものを見下すという、鼻持ちならない人がいます。 それは、特に自分の好きな分野で、自分の考えと違うことを言っている人、スタンスが違う人に対して出てくるようです。 私 ...
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