自覚と悟り

「私はコントロールしている!」という感覚

いつもの散歩コースからこんにちは✨✨
 
全宇宙のmomo.ファンのみなさまこんにちは。
 
普段着用ダウン(写真)が、
ユニ〇ロ→ノー〇フェイスに格上げになりました✨✨
 
よく行く山梨のアウトドアショップで、
新年のガラポンにチャレンジしたら、
なんと銀賞!!
 
4割引で購入できました。
 
定価でも買おうと思っていたのですが、
予期せぬハッピーでした✨✨
 
無欲の勝利✨✨
 
あったけー(●´∀`●)
 
山でもキャンプでも、普段も着たおすぞー(*´∀`*)
 
 
皆さんは、「自分の意志で〇〇している」って、思ってますか?
 
私は、思ってましたよ。
 
私が行動したから、〇〇できた。
 
私が行動しなかったから、〇〇できなかった。
 
良くも悪くも、私が現実をコントロールしている、って、思い込んでましたよー。
 
ま、天災とか、大病とかは、自分の意志とは関係なくやってくる感覚もありますが。
 
でも、ほんとは、私がやっていることは一つもなかった。
 
私がこの現実に介入し、コントロールできたことは一つもなかった。
 
としたら、どう思いますか?
 
最近思うのは、
 
いろいろ、たくさん、思い悩むけど、
 
それが実際の行動(したりしなかったり)には関係ないんじゃないか?
ってことなんです。
 
スクリーンに映画が映し出されていて、
私は映画の登場人物ではなく、スクリーンなんだよ。
 
って、非二元の世界では、よく聞く話ですが。
 
よくみてみると、私は映画の登場人物なんだ!と主張してる声は聞こえても、証拠がない。
 
もし、その私がいるとするなら、(思いきりいるように感じるので)
 
むしろ、映画を見てる観客の方なんじゃないか、って思います。
 
ストーリーにたくさん同化するけど、ストーリーに介入はできない。
 
文句も感動も喜びも湧いてくるけど、
それによって映し出される出来事が変わることはない。
 
同化はするけど、コントロールはできないんじゃないか。と考えています。
 
はじめっから、スクリーンからも、移っているストーリーからも、蚊帳の外の観客という立場(笑)
 
じゃあ観客に何ができるのか?っていうと、
気づいていることはできると思うんです。
 
私は今〇〇に怒っている。
私は今〇〇に反応している。とか。
 
現実に介入できなくても、気づいている意識をもっていると、
 
ストーリーとの距離ができて、
現実を重くとらえないようにもなっていくのかもしれません。
 
そして、どう感じるか?が変わっていく。
 
じゃあスクリーンは?って話になると、
これはもう悟ってる(分離がない)視点なので、その先になるのかなぁと思います。
 
先というか、もっと根っこというか。
 
今は、現実だと思っているこの世界に、本当に私は影響を与えているのだろうか?
 
ということを、
 
様々な反応を自覚することを通して、検証しているところです。
 
そのすべての反応の大元には、
 
私はいるんだ!私がやっているんだ!
と主張したい気持ちが横たわっている。
 
まずはその声を聞いてあげながら、結果取り合わない(笑)ということを、繰り返しています。
 
取り合わないというのは、ないがしろにするってことではない。
 
これが、「コントロールできないんでしょ。放棄!」ってなるのは違ってて。
(無意識にたまっていく一方だし)
 
反吐が出るまで聞き尽くしたり、
感情もあるがままにさせておきながら、
どこかで「これって私じゃないよなー」って、醒めていること。
 
主張したい私は、必ず今にいないとき。
 
今まで光を求めさまよう方に、浸かっていたなぁ。
 
コントロールを断つというのは、怖すぎて、
いまだ肉体の疲労感とともに、一日一日、歩んでいます。
 
軽く生きる道なのに、かなり重いです(笑)
 
ぼくはあるがまま、眠りますよ。
 
 

最後までお読みくださり、ありがとうございます♪

 

 

 

 

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