前回、最近起こってきた怒りについて書きました。
これが起点となって、私自身の現地点をそのまま見ることを促す流れが始まっています。
昨日は、韓国の覚者、マスターゲート氏の講演会に行ってきました。
自分のことなのに、なぜ他人や本、宗教、瞑想に頼るのか?
私ですべてが解決するのに。
あなたがたは、悟っているわけでもないのに、情熱もない。
問題があるなら、委ねるのではなく、努力して解決しようという情熱をもってください。
それでもダメなら自覚をしてください。
というフレーズ(桃子フィルターかかってるかも)が、心に残りました。
もう一度、比較しない私自身をみて、敬い、愛すること。
あくまで、今の私自身のことであって、他の誰かや、過去や未来の私に当てはまるわけではありません。
今回は、スピリチュアルな理解としての私の現地点です。
- 高次元の存在や、天使や、妖精たち、宇宙人とのチャネリングは、知識でありリアルではない。
自らやってみたとしても、私がイメージで存在させて、しゃべらせている感が否めない。
- オーラやビジョンなどが見える、聞こえるなどは、半分は気のせいの範疇としてとらえている。
(体感を伴わないため。体感といっても、気持ちいいという感覚にこだわっている。)
- 真実と思うことは、圧倒的に体感の心地よさ、気持ちよさなどで感じられる。
センタリングやグラウンディングは、イメージで誘導(セルフやセッションでも)するが、その中で起こる体感を伴って初めて「完了した」とOKを出す。 - セッションでも、体感は私の中で起こることであって、相手がどう感じるのかはわからない。
伝わってるかどうかもあまり気にしておらず、ひたすら私自身の体感によって「なすべきことがなされた」と腑に落ちる感覚。
- ではその体感が起こっても、具体的に何が行われているかということは理解していない。
なので、相手に説明できない。そのことについては居心地の悪さを感じてはいる。
- セッションでわいてくるビジョンとメッセージは、それ自体に信憑性があるかどうかは重要ではない。
イメージなのか、チャネルしてるかというのはどっちでもいい。
ただ、私は相手を信頼しきって、出てきたものをそのまま出している、という状態。(キーワード、色、景色、など)
- 瞑想やヴォイスワーク・体感を好むのは、思考から離れることで自己肯定感を感じたいから、ハートの感覚や直感をとりもどすため。
最近は、ワーク中ビジョンやメッセージをおろすということもおもしろくてやっている。
やっぱりこれは、それだけじゃなく、感覚を伴ってということが重要みたい。
瞑想中も何かを求めているな。無に落ち込むのはこわいまま。
ワンネスという感覚もよくわからんちんだなぁ。
ここまで出してみると、私ってふつうの人ですね。。
これが現時点での私と思っているので、その理解の範囲外にあるものには反発を感じるわけですね。
この体感だったり読み解くトレーニングを重ねていった先に、知識を超えたチャネリングだったり、理解が起こるのかなぁと思っています。
そして、それを私がしていきたいかというと。
単純に気持ちいいことはつづけていくけど、その先に何かを目指そうというアプローチには関心がなくて。
私は、私自身の真実を知りたい。
「こうありたい」理想像をおいかけるのではなく、等身大の私をもっともっと知って愛していきたい。
今この記事を書くことがまさにそれ。
この情熱にしたがって、私を深く深く知っていくなら、自然に理解が起こり、拡大がおこり、もっともっと創造ということも楽しんでいける。
今までに歩んできた道を見てもそう思う。
ありのままの自分を見るということだけでも、終わりがない。
まだ、つくってたね、まだ、許してなかったねって、一年前には気づかなかったことが、意識にのぼってきつづける。
それが苦しかったのだけど、もう終わりにしてしまったらもったいない。
今は、そう思えるんだ。
そうやって、自分を知りつづけてあげること。
そのまんま、受け入れつづけてあげること。
これは、私が得意としている、自分自身への愛です。
だから、自分以外の何かや、今以外のどこかを目指す必要はどこにもない。
だけど、それで納得させるのではなく、そうしている自分をよく知って、わかってあげることだし、叶えてあげる努力も大切だなぁ。と思いました。